綺麗さびの極み

塗師 中谷光哉(中光塗物)

更新日:2019.12.6
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縦に細長い石川県の南部に広がる加賀温泉郷の中でも、お隣り福井との県境に近い山中温泉。九谷焼と並び称される「山中塗」の里でもあります。
今回は、職人歴66年、御年88にして現役の塗師として活躍する中谷光哉(なかや こうさい)さんにお話をお伺いしました。

茶道具を通じて、漆器の持つ可能性に驚かされました。

-まず初めに、小さい頃のお話を聞かせてください。
私が小さかった頃は戦中から戦後にかけての混乱期。教育制度がころころと変わる時代でね。
尋常小に入学して、国民学校に通って、高等学校を卒業している。
履歴書に書いたら、かなり複雑な経歴ですよ(笑)

-その当時から、
 家業を継いで職人になろうと思われていたのですか?

いいえ、まったく。
小松の工業学校を出てから、金沢の精密機器を作る会社で働いていたくらいですから。

-先代も継がせる気はなかったのでしょうか?
戦争で廃止になっていたので行けなかったですが、親父としては私を商業科に進学させたかったみたいから、その気はなかったのかな?

-商業科、ですか?
そう。ものを作る方ではなく、売る方ですね。
でも「職人」は、作ったものを売ってくれる「問屋」があって初めて成り立つ仕事。
だから、もしかしたらそちらの世界もしっかり勉強させておきたかったのかも知れないですね。
今となっては分からないですが。

-そんな光哉さんが、職人になったきっかけは何だったのでしょう?
就職して1年半程度で、肺を患ってしまったんですよ。
仕方なく山中に戻って療養していたんだけど、周りの同世代(20代前半)はみんな汗水垂らして働いていてね。自分ばっかりのんびりしていていいものかと思って、父親の仕事を手伝い始めたのがきっかけです(笑)

-なるほど。その当時から山中塗では茶道具を作っていたのですか?
いえいえ。ほとんど作っていないですよ。
25歳くらの時かな。たまたま、山中塗の第一人者でもある辻石斎(つじ せきさい)さんの仕事を手伝う機会がありまして。そこでやった、丸めた和紙を伸ばして漆で貼り付けるという技術(=一閑塗)が面白くてね。夢中になって仕事してました。
そんな私の姿を見た石斎さんが、茶道具を専門に作る京都の職人さんを紹介してくれて、そこで一閑塗を修業したわけです。
それまでは身近にある雑器や土産物の工芸品ばかり作っていたから、まあ驚きましたよ。
漆器でこんなものが作れるのか、こんな表現ができるのかと、世界が広がりました。

-そこから、一気に茶道具の道へと進むことになるのですね。
石斎さんや京都の職人さんの手伝いで、棗(茶器)から棚までさまざまな茶道具を作りました。
そんな頃になってからようやく、山中で手伝った石斎さんの仕事が、かの有名な北大路魯山人と一緒に制作した「一閑日月椀」だったと知ったんです(笑)

-金箔と銀箔で太陽と月を表現した、あの有名なデザインの!?
びっくりでしょう。私自身がびっくりしましたよ(笑)
それからまた縁あって、遠州流の先代御家元とお会いする機会に恵まれて、さらにそこで人間国宝にもなる赤地友哉(あかじ ゆうさい)先生から教えを頂くことができました。

-もしかして、「光哉(こうさい)」という名前は・・・
そうです。友哉先生の「哉(さい)」を頂いています。

-現在では、息子さんの光伸氏も跡を継がれ、ご家族で制作に取り組まれていますね。
どんな業界でも、後継者の問題は深刻のようです。
職人仕事だけで生計を立てるのは本当に厳しい時代ですからね。
そうは言っても、手仕事には手仕事の良さと言うか、手仕事でしか出せないものがある。
手仕事の大切さを忘れずに、将来に向けてそれをしっかりと伝えていきたいと思っています。

道具は使われてなんぼ。茶席で使われている姿を見て欲しい。

-数々の茶道具を作ってきた光哉さんから見て、遠州流の魅力はどのようなところですか?
そもそも千家さんの茶道具作りからこの世界に入ったので、初めて遠州流の茶道具を見た時には驚きましたよ。
大名茶道である遠州流では、とにかく細やかで複雑な美しさを追求されます。

こちらは宗実御家元のお好みで作った相応棚です。
柱一つとってもしっかりと細工が施されていますし、欄干にも繊細な透かしが彫られています。
すっきりとした細めのシルエットや、ところどころに使われている曲線のあしらい方を見てもらえると、どことなく優雅な雰囲気を掴んでいただけるのではないかな。

-全体的に優しい印象です。
そうですね。
一般的な茶道の棚と言えば、四角くてシンプルで、素朴な味わいのあるものを想像されると思いますが、かなり違うでしょう。
-細かい透かし彫りなどは、思わず見入ってしまいますね。
でも実際のところ、茶道において「棚」は、このような鑑賞のされ方はしないんですよ。

-どういうことですか?
棚はそもそも単体で使うものではありませんよね。
ここに様々な茶道具がセットされて初めて、その存在に意味が出るものです。

-それは確かに。さまざまな茶器が置かれている状態で、皆さまの前に出てきます。
その時に、個々の主張が激し過ぎるとお互いを引っ張り合ってしまう。一つの棚でも、そこにどのような茶道具を合わせるかで、それを使う人の個性が出てくるものなんです。
職人の作った「棚」としてではなく、ぜひお茶の席で、実際に使われている茶道具としての「棚」を見て欲しいですね。

-最後に、遠州流の茶道具を作る上で大切にしていることを教えてください。
御先代宗慶宗匠から頂いた2つの言葉がとても心に残っています。
それは、「用を足す」それから「作家になってはいけない」というものです。
-どのような意味でしょう?
茶道具は飾っておくものではなく、使うものであるということ。
そして、職人は芸術家ではないということ、そう理解しています。
-先ほどの、「実際に使われている棚を見て欲しい」という考えとも一致しますね。
確かに遠州流の茶道具は見た目にも気を遣います。
でもだからと言って、使い勝手を無視しては意味がありません。
道具はあくまでも道具。芸術作品ではないのですから、「見られるもの」としてのアピールが過ぎては、本末転倒になってしまいます。

プロフィール

中谷光哉(なかやこうさい) 北海道小樽市生まれ 88歳
会社勤めの後、辻石斎のすすめで茶道具作りの修業し、山中に戻り初代が開いた工房を継承。赤地友哉に学び、遠州流の茶道具を数多く手掛けている。


呉服 江澤秀治(ちくせんや)

更新日:2019.07.2
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かつて浴衣などで名を馳せた老舗の屋号を受け継ぎ、浅草は寿町で二代に亘って続く呉服店「ちくせんや」。実店舗を持たずに客先へと出向いて誂える「背負い呉服」のスタイルを今なお貫く二代目の当主、江澤秀治(えざわ ひではる)さんにお話をお伺いしました。

-創業当時から、店舗のない『誂え』専門だったのですか?
先代が創業した時からです。
色や柄などお客さまの好みを聞いてから誂えるのでオリジナリティの高い着物が作れること、
そしてお店を構えないで済む分、人件費も維持費も掛からないから安くできるのが特長です。
ご自身を「悉皆(しっかい)屋」と表現する江澤さん。
いわゆる悉皆屋という言葉を聞くと、着物の洗い張り(洗濯)や染み抜きといったメンテナンスをしてくれる職人さんを思い起こす方も多いも知れません。
しかしかつては、「残らず、すべて」という「悉皆」の意味通り、「着物のことならすべて引き受けることができる」ということを指し、悉皆業を主とする呉服店も数多く存在したのだとか。
作りたいお客さんの意向を聞いて、職人たちを動かす。それが江澤さんの仕事です。

-職人さんをコントロールするのは、難しそうです。
確かに、着物の職人といっても必ずしも着物を着ているわけではありません。
そのためか、飾って『魅せる』ことを重視しがちです。でも着物は、人に着られた時にどう見えるかが最大のポイント。
その観点から見ると、職人さんは『描き過ぎ』てしまうことが多いので、そこはちょっと苦労しますね(笑)

-実際にお客さまと職人さんの間に入るのは、
 とても大変だと思います。
 どちらの知識も必要と言うか・・・

その通りですね。
着物を着る人の好みやデザインを作る人の好みを把握するには、それなりの知識もセンスも重要です。
それらを職人に分かりやすく説明するには、やはり作り手としての知識も必要になります。

-まるで、アートディレクターのようなお仕事ですね。
 遠州流では毎年、お家元が帛紗をデザインされますが、それを手がけているのが江澤さんです。

先代の頃からお家元とはお付き合いをさせていただいていますが、それこそセンスの塊のような方なので(笑)。 日々、お家元の意向に添えるよう自分自身も磨いています。

他流派も注目する、遠州流の帛紗

-帛紗と聞くと、どうしても赤や紫の無地のものを連想してしまいます。
それはもしかしたら、学校の授業などで習ったり見たりした記憶があるのではないでしょうか?

-確かに、小さい頃のクラブ活動などで、そんな風景が目に焼き付いているのだと思います。
そもそも帛紗には、この色でなければいけないという決まりはないと思います。
少なくとも遠州流に関して言えば、お道具の中でもかなり自由度が高いのではないでしょうか。

-遠州流以外の流派でも、そういうものなのですか?
そんなことはないようですね。
私自身も、先代紅心宗慶宗匠の御実弟である戸川宗積先生に学ばせていただいた身ですが、
やはり遠州流の帛紗が最もデザイン性には秀でていると思っています。

-遠州流ならではの魅力といっても差し支えないでしょうか?
いいと思います。
実際にさまざまな先生方からも、他流派の方から今年の遠州流の帛紗はどうかしらと質問される機会も多いとお聞きしました。

-なるほど、他の流派の方々からも注目されているのですね。
お道具の中でも、帛紗は最も地味な部類に入るかも知れません。
でも、そんな消耗品ともいえるような存在ですらおろそかにしないのが、遠州流の美意識だと感じます。

-それでは実際にいくつか、見せていただきたいと思います。
こちらは、今年の夏用(右)と冬用(左)の使い帛紗です。
使い帛紗とは、お点法の時に茶道具のお清めで使用する帛紗のこと。腰に差しているものです。
2色であったり、鮮やかな朱色であったりと、実にデザイン性の高い印象を受けると思います。

-こんなツートンカラー(左)の帛紗もあるのですね!
2色に分かれているのは、今年が平成から令和に変わる改元の年であることを表現しています。
そして、裏表合わせると全部で31の七宝紋と菊花紋があしらわれています。

-31ということは、平成31年ですか?
その通りです。
毎年、干支を始めその一年を連想させる特長的な事象をデザインに取り入れたりするのですが、
何とも遊び心に溢れた斬新なデザインですよね。およそ私の頭の中にはないアイデアです。

-江澤さんにとって、もっとも印象に残っている作品はどれでしょう?
こちらの、「遠州紋紗」ですね。
左側が完成品で、右にあるのは完成のひとつ前の試作品。完成まで実に1年以上を要しました。
透かしをあしらった織帛紗なのですが、夏の絽として出し帛紗を作るのは初めての試みでした。
あまり他の流派でも見かけないと思います。

-涼やかでぱりっとした感じのする、洗練されたデザインですね。
最終的に、菊花紋2か所と七宝紋1か所に銀泥をあしらいました。
このたった3か所の銀泥のバランスが、地の縹(はなだ)色の涼やかさを、より一層引き立てていると感じませんか?
こういったアイデアのセンスは、やはりお家元ならではですね。

-実際に手にしてみると、軽くて柔らかいのですね。
この柔らかさを実現するのも、本当に苦労しました。

-柔らかな手触りというのは、やはり重要なのですか?
織物である以上、手触りは大切な要素です。
でもそれ以上に、帛紗の茶道具としての役割が重要なのです。
帛紗というのは、基本的に小さく畳んで使用するものです。
生地が固いと折り目が跳ねてしまう、つまり、折る前の状態に戻ってしまったりするのです。

-ここまで大きな一枚の織物ですから、当然、使用する時には何度も畳むことになるわけですね。
そうなのです。
ところで、大きさの話が出ましたが、実はこのサイズの出し帛紗を使用するのも、遠州流ならではだと思います。他の流派では、この4分の1程度の大きさの「小帛紗」と呼ばれるサイズのものを出し帛紗として使用するのが一般的です。

-それはどうしてなのでしょう?
正確なところは分かりませんが、遠州流が武家茶道であることと関係があると思っています。

-武家茶道ならではの、ダイナミックさ!
はい。武士である以上、人からどう見られるかというのも重要です。「見栄」や「気位」ですね。
大きく流れるようなお点法が特長の遠州流ですから、使用するお道具もやはり存在感のあるものの方がいい。私はそんな風に感じています。

-なるほど。説得力があります!
あくまでも私の感じ方なのですが・・・
でも、このような楽しみ方があってもいいのではないでしょうか。
あまり型にはまらず、見たままを感じるような、そういう視点で見てみるのも面白いものです。

プロフィール

江澤 秀治(えざわ ひではる)  東京都台東区生まれ
サラリーマンを経て、飯田橋の呉服店で修行。28歳で父が創業した店を持たない誂え専門の呉服店「ちくせんや」を継ぐ。二代目当主。


陶芸家 清水久嗣(楽山窯)

更新日:2019.04.19
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初代楽山氏の頃から遠州流と深い関りのある三重県、楽山窯。
地元の万古焼に高麗の作風を加え、多くの遠州好みの茶碗を生み出してきました。
今回は、楽山窯の四代目当主、清水久嗣(しみず ひさし)さんにお話をお伺いしました。

父の手の平で転がされていたのかな(笑)

-まずは本題に入る前に、久嗣さんの小さい頃の話を聞かせてください。
とにかくよく外で遊んでいた記憶があります。暇さえあれば、野山を駆け回っていたような。
おかげで中学・高校の頃は陸上一筋で、全国大会にも出場させてもらいました。
-それはすごいですね。ちなみに種目は?
110mハードルです。

-小さい頃は、陶芸にそれほど興味はなかったのですか?
いえ、そんなことはありません。
四日市は万古焼の生産地ですから、父(三代 日呂志氏)の仕事も、ごく自然に受け入れていました。
何より、父が仕事をしている姿を見ることが大好きでした。

-ご自身でも作ったりしていたのですか?
そうですね。
絵を描くことも、土をいじることも好きでした。
小学校の2、3年生の頃には「陶芸家になる!」と周囲に宣言していたくらいです。

-それは、ずいぶん早いですね!
 でも時が経つにつれて、やりたい事ができたり、
 他の事に興味が傾いたりしませんでしたか?

それがまったくなかったんですよねぇ(笑)
それこそ高校を卒業する時など、私の周りはみな就職とか進学とかで悩んでいました。
自分が何をやりたいのか分からなかったり、他人の言いなりでいいのかと自問自答してみたり。
でも、そんな思春期の葛藤みたいなものとは、本当に無縁でした。

-作陶は、地道な作業をこつこつと積み上げる仕事です。
 失礼ですが、小学生が見て憧れるような職業ではないと思うのですが・・・
それが楽しそうだったんですよ。
見ていて面白かった。とにかく父が、色々と挑発してくるもので。

-挑発? ですか??
例えば、「見てろよ、この同じ器を1分間で10個作ってみせるぞ!」なんて言ってみたり。
もしくは、私に簡単な作業をやらせて「勝負しよう!」とけしかけてきてみたり。

-ゲーム感覚ですね。
だから、父の仕事を見ていても、まったく飽きるようなことはありませんでした。
恐らく、そうやって私が自然と陶芸を好きになるよう、仕向けていたんじゃないでしょうか。

-お兄さんや弟さん(久嗣さんは男三兄弟の真ん中)も一緒に見ていたのですか?
いいえ、まったく。私だけです。

-お父さま(日呂志氏)は、久嗣さんの陶芸家としての才能を見抜いていた。
 そいうことでしょうか?
それはどうかなあ?
でも今考えると、父の手の平で転がされていたのかなと、そう思いますね。

-お父さまの術中に、まんまとはまってしまったと。
そういうことです(笑)

遠州のバランス感覚が生み出す、アンバランスな美しさ

-遠州好みの一つとして、清水さんが作られている「高麗物」があります。
 朝鮮半島と聞くと、つい青磁や白磁をイメージしてしまいがちですが・・・
 そうではない焼物もあるのですね。

そうですね。
恐らく遠州公は、当時から美術品としてあったものではなく、ごく普通に使われていた器を
茶碗と見立てて、そこに美しさを見出していたのではないかと思います。

-よく雑誌などのメディアで、
 「シンプルを極めた利休、豪快なデフォルメを好んだ織部、バランス感覚の遠州」
 といった評価を見かけることがあります。

 言葉としては理解できても、実際にどう違うのか、初心者にはなかなか分からないものです。
遠州公のバランスというのは、いわゆる均衡というニュアンスとは違うと思います。
例えば中国の焼物は、左右対象で図柄の線の太さも同じという、整った美しさが特徴です。
一方、遠州公が好んだ高麗物には、左右対称のものはあまり多くありません。
図柄の線も、細いところもあれば太いところもあります。
図柄そのものも、一見、何が書いてあるのか分からないものもあります。

-整いすぎず、崩れすぎず、シンプルすぎず、華美すぎず、という絶妙な美意識。 それが、遠州公の「バランス感覚」なのでしょうか。
自然にできるいびつさや、偶発的に起こる不均一を、美しいと感じたのではないでしょうか。

-大げさ過ぎてはいけない、と。
そうですね。作為が見え隠れするようなゆがみ、とも言えると思います。
例えば一つの林檎を想像してください。
皮をむく前は、丸くつるりとした、整った美しさがあります。
でも皮を剥けば、当然ですが、凹凸ができてしまいます。
そんなごく自然な不均一に、遠州公は美しさを感じたのではないかと思います。
ただし、それをわざと下手に剥いてしまっては、自然さは失われてしまいます。

-なるほど。でもそれを焼物で自然に再現するのは難しそうですね。
確かに、意識しすぎてしまうと却って難しいという面があります。
さらに、現在では窯やろくろも高度化しているので、なおさらです。

-嫌でも上手にできてしまう?
そういうことです(笑)

-それで、韓国にも窯をお持ちなのでしょうか。
やはり、現地の土を捏ね、当時のろくろで回し、昔ながらの窯で焼くのがいい。
父が韓国に窯を作ってから50年ほど経ちますが、恐らく、そう考えたのだと思います。私自身、今でも日本と韓国を行き来する生活を送っています。

-無駄も多いような気が・・・
実際、失敗も多いですよ(笑)
例えばうちの窯には、温度計が付いていません。
薪をくべながら目で見て肌で温度を感じて、その日の気候に合わせて焼く。
だから当然、目は離せないですし、見込みを誤ることだって、多々あります。

-こちらの御本茶碗も、そんな風にして出来上がった作品ということですね。
御本とは「手本」という意味なのですが、日本で下絵や切型を作って、
それを「手本」として、朝鮮半島で焼かれたものが、御本茶碗です。
そんな「手本」を造った人物が、遠州公であり、徳川家なのです。

-こちらもそうなのですか?
もちろんです。これは有名な「立鶴」という図柄です。
三代将軍徳川家光が下絵を描き、遠州公がデザインしたものです。

-模様も不規則で、色味もほんわかとしていますね。
確かに、均整の取れたシンメトリーな美しさではありません。
それでいて、青や枇杷色の仄かな斑点模様が一つの碗の中に出ていますよね。
朴訥とした味わいの中にも、煌びやかな明るさがある。
それが遠州流の「綺麗さび」なのかなと感じます。
そんな視点で多くの茶碗を見てもらえると、何か感じるものがあるのではないでしょうか。

-やはり、色々な作品を見てみないと分からないですね。
私も、お家元を始め様々な先生方から「良い物」を数多く見せていただき、
ご指導いただいたことに挑戦していくことで、日々、自分自身の美意識を磨いています。

プロフィール

清水 久嗣(しみず ひさし)  三重県四日市市生まれ/47歳
高校卒業後、アメリカにて美術・デザインを学び、帰国後に父、日呂志氏に師事。曾祖父に当たる楽山氏が開いた楽山窯の四代目当主。