茶道の流派
茶道隆盛期を迎えた江戸時代初頭、数多くの茶道の達人が流派と呼ばれる独自の茶風を作り出していきました。茶道には様々な流派がありますが、その歴史や担い手から二つの系統に大別することができます。
町衆茶道
遠州の綺麗さびに対し、侘び宗旦(そうたん)とも呼ばれる遠州と同じ時代を生きた千利休の孫の千宗旦(せん・そうたん)は、利休の最後を想い、仕官の道を捨てて乞食宗旦ともいわれ、侘び茶を徹底し清貧の生涯を通したと言われています。しかし、子供の就職には奔走し、次男宗守を高松松平家に、三男宗左を紀州徳川家に、四男宗室を加賀藩前田家に仕えさせました。その後、三人が茶の湯を家業とする三千家となり、現在の表千家・裏千家・武者小路千家として家元制度を確立し、茶道を普及させました。また、宗旦が育てた弟子の藤村庸軒(ふじむら・ようけん)・山田宗徧(やまだ・そうへん)・杉木晋斎(すぎき・ふさい)・久須美疎安(疎安の代わりに松尾宗二・三宅亡洋という説も有)を宗旦四天王と呼び、彼らの系譜を引く流儀は庸軒流・宗徧流・松尾流となって千家流の茶道を広めました。これらの主役が町人層であったため町衆茶道と言われています。町衆茶道は一般に広く広まる一方、遊びを楽しむ芸として形式主義化し、茶道本来の「道」から外れてしまった時期があり、それを危惧した松平不昧(まつだいら・ふまい)や井伊直弼(いい・なおすけ)らの大名は、禅宗の教えである「茶禅一味」(茶も禅も同じ)に立ち返り、流派や形式にとらわれない茶道を提唱し、茶道本来の姿を再生させました。
武家茶道
もう一つの流れが、一般に大名茶道、武家茶道と呼ばれる各大名家に伝わる茶道で、各地の大名など武士階級によって広められました。古田織部、小堀遠州、片桐石州(かたぎり・せきしゅう)、金森宗和(かなもり・そうわ)、松平不昧、井伊直弼などが代表的な茶人で、彼らの系譜を引く流儀には遠州流、石州流、宗和流などがあります。
当時の支配者であった武士階級は、公式の場面も含め、上は将軍から大名同志、親族、家臣、公家、僧侶、出入りの商人、職人に至るまで身分を越えた交流が必須でした。茶の湯好きであった二代将軍徳川秀忠、三代家光が「数寄屋御成」を執り行い、たびたび大名の屋敷に茶の湯に出向いた史実も広く知られています。将軍家に対する不調法は、最悪の場合、切腹やお家取り潰しとなるため、大名は茶の湯に詳しい人に教えを請いました。茶道の第一人者であった小堀遠州のもとに諸大名が集まった理由にも得心がいくでしょう。
この数寄屋御成は次第に衰退しましたが、大名家の代替わりの証として名物茶道具の献上や下賜(かし)が行われるなど、茶道を介した交流は続きます。将軍家との関わりも、代替わりした証として名物茶道具や刀剣が与えられる慣習へと移り変わりました。
ただし、下賜されたといっても一代限りであり、次の代替わりの際に将軍家に献上(返還)しなくてはなりませんでした。このように名物茶道具を所有することは武家社会の地位を確かなものにし、秩序を形成する役割もあったことから、武家階級でも茶道の技芸や教養が重視されたのです。
徳川政権が武家による軍事政権でありながら、戦争をほとんど経験しなかった背景には、交際儀礼に心を砕いたことも影響しています。武士は大名だけでなく、下級武士にいたるまで、家計に交際費が占める割合は高く、衣食住の費用を削ることはあっても、交際費だけは削減することはありませんでした。それが武士の名誉にも繋がっていたからです。茶道を通じて武家の心得や哲学が磨かれるとともに、茶道の「もてなし」の精神が根付くことで、戦争がほとんどない平和な世の中が作られたとも言えます。
その証拠に、新渡戸稲造(にとべ ・いなぞう)が著書「武士道」で「武士の教育において、美の価値をみとめることが重要な役割を果たしてきた」と、茶道がサムライの精神形成に大きな役割を果たしたと述べています。人と人との付き合いで重要である礼に対しての心構えについても「礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによってものごとを行うので、いつも優美な感受性として表れる。礼の必要条件とは、泣いている人とともに泣き、喜びにある人とともに喜ぶことである」と書き記しています。
形式主義的に見られがちな茶道の稽古も、洗練された点前・立ち居振る舞いを繰り返すことによって感性を磨き、あらゆる事象に神経を研ぎ澄ませる訓練につながります。そして、立場を越えて常に相手を思いやる心こそが礼につながるのです。
茶の湯の歴史を足利義政の時代(1450年頃)からと考えると、現代までおよそ570年。そのうち江戸時代末期までの380年は武士の時代でした。茶の湯の歴史を武士が主導してきたという事実に疑いの余地はありません。
現代では、大名や武家よりもサムライの方が馴染みがあるでしょう。サムライは武士一般を指す言葉ですが、かつては「尊敬すべき人」をサムライと称しました。サムライは誇り高き称号であることから、高い精神性を備えた武家の茶道、サムライスタイルは常に品格が求められてきました。