六世 小堀政壽(宗延)

養子に入るが、19歳で隠居
五世小堀政峯(宗香)の嫡子であった小堀政養(まさやす)は17歳で亡くなった。次男の小堀政報(まさつぐ)は小堀玄蕃政郷(げんばまささと)の養子になる。政郷は遠州の弟の正行の家系である。三男小堀政寧(まささだ)は、22歳で亡くなる。そして四男小堀千彌(せんや)は早世し、五男小堀政展(まさのぶ)は小堀政報(まさつぐ)の養子になった。このように5世小堀政峯(宗香)は多くの子に恵まれながら、早くなくなったり養子にやったりしたため跡継ぎがいない状況となり、養子を取ることになる。嫡子となったのは、妻が五世小堀政峯の長女であった小堀仁右衛門惟貞(これさだ)の三男、小堀政壽(まさひさ)だった。惟貞の祖先は遠州の弟、正春になる。寛保二年、政壽を養嗣子として幕府に願い出、養子として認めれれた。寛延元年、十五歳の時に将軍家重に拝謁し、従五位下大膳亮に叙任した。しかし、その後、五世小堀政峯に男子が誕生したため、六世小堀政壽は19歳で、小室に隠居することになる。茶は五世小堀政峯や小堀家茶頭の富岡友喜などから伝授された。伝えられた作品は少ないが、定家様によって書写さされた百人一首冊子本や茶杓など、遠州流を正しく継承していたことがわかる。