十世 小堀正快(宗有)

茶道衰退期に宗家を守る

 十世小堀正快(まさよし)は、父九世小堀宗本が祖父八世小堀宗中よりも先になくなり、さらには宗中も亡くなった。明治維新を迎えた時には、小堀正快は11歳だった。茶頭であった和田新兵衛と共に研鑽し、茶法に修熟した。明治初期、小堀宗有はまだ幼い上に武家文化の茶道は衰退していた。
 明治新政府で行政官支配となり、麻布市兵衛町に屋敷を賜り、東京士族となった。一時期大徳川家よりお召しかかえの沙汰があったが、枢密院顧問官石黒直悳子爵の勧めにより、流祖遠州より伝承した茶道を一般に公開相伝することを決意、遠州流茶道の普及に専心した。第二回観古美術会開催にあたり、佐野常民伯爵の依頼もあって小堀家伝来の器財を公開、また御臨席の親王殿下・妃殿下及び大臣参議の方々にお茶を供し、遠州の茶道を披露し名声を博した。
 後援者の一人、石黒直悳の勧めによって明治二十九年には初めて女性に門戸を広げるなど、遠州流茶道の一般化を図った。第一号の女性門人は松村すず。大正七年には家元顧問となり、門弟を指導した。女性門下には、歌舞伎座、明治生命館、鳩山一郎邸の設計で知られる岡田信一郎の妻、岡田静などが知られている。岡田静は、萬龍という東京一の売れっ子芸妓。萬龍は絵はがき美人として人気を博し、1908年に「文芸倶楽部」誌が主催した芸妓の人気投票「日本百美人」で9万票を得て第一位となり、三越のポスターなどにも登場した。「酒は正宗、芸者は萬龍」と流行歌にも歌われるほど評判を呼んだ。

佐野常民伯爵
岡田 静(萬龍)