縦に細長い石川県の南部に広がる加賀温泉郷の中でも、お隣り福井との県境に近い山中温泉。九谷焼と並び称される「山中塗」の里でもあります。
今回は、職人歴66年、御年88にして現役の塗師として活躍する中谷光哉(なかや こうさい)さんにお話をお伺いしました。
茶道具を通じて、漆器の持つ可能性に驚かされました。
-まず初めに、小さい頃のお話を聞かせてください。
私が小さかった頃は戦中から戦後にかけての混乱期。教育制度がころころと変わる時代でね。
尋常小に入学して、国民学校に通って、高等学校を卒業している。
履歴書に書いたら、かなり複雑な経歴ですよ(笑)
-その当時から、
家業を継いで職人になろうと思われていたのですか?
いいえ、まったく。
小松の工業学校を出てから、金沢の精密機器を作る会社で働いていたくらいですから。
-先代も継がせる気はなかったのでしょうか?
戦争で廃止になっていたので行けなかったですが、親父としては私を商業科に進学させたかったみたいから、その気はなかったのかな?
-商業科、ですか?
そう。ものを作る方ではなく、売る方ですね。
でも「職人」は、作ったものを売ってくれる「問屋」があって初めて成り立つ仕事。
だから、もしかしたらそちらの世界もしっかり勉強させておきたかったのかも知れないですね。
今となっては分からないですが。
-そんな光哉さんが、職人になったきっかけは何だったのでしょう?
就職して1年半程度で、肺を患ってしまったんですよ。
仕方なく山中に戻って療養していたんだけど、周りの同世代(20代前半)はみんな汗水垂らして働いていてね。自分ばっかりのんびりしていていいものかと思って、父親の仕事を手伝い始めたのがきっかけです(笑)
-なるほど。その当時から山中塗では茶道具を作っていたのですか?
いえいえ。ほとんど作っていないですよ。
25歳くらの時かな。たまたま、山中塗の第一人者でもある辻石斎(つじ せきさい)さんの仕事を手伝う機会がありまして。そこでやった、丸めた和紙を伸ばして漆で貼り付けるという技術(=一閑塗)が面白くてね。夢中になって仕事してました。
そんな私の姿を見た石斎さんが、茶道具を専門に作る京都の職人さんを紹介してくれて、そこで一閑塗を修業したわけです。
それまでは身近にある雑器や土産物の工芸品ばかり作っていたから、まあ驚きましたよ。
漆器でこんなものが作れるのか、こんな表現ができるのかと、世界が広がりました。
-そこから、一気に茶道具の道へと進むことになるのですね。
石斎さんや京都の職人さんの手伝いで、棗(茶器)から棚までさまざまな茶道具を作りました。
そんな頃になってからようやく、山中で手伝った石斎さんの仕事が、かの有名な北大路魯山人と一緒に制作した「一閑日月椀」だったと知ったんです(笑)
-金箔と銀箔で太陽と月を表現した、あの有名なデザインの!?
びっくりでしょう。私自身がびっくりしましたよ(笑)
それからまた縁あって、遠州流の先代御家元とお会いする機会に恵まれて、さらにそこで人間国宝にもなる赤地友哉(あかじ ゆうさい)先生から教えを頂くことができました。
-もしかして、「光哉(こうさい)」という名前は・・・
そうです。友哉先生の「哉(さい)」を頂いています。
-現在では、息子さんの光伸氏も跡を継がれ、ご家族で制作に取り組まれていますね。
どんな業界でも、後継者の問題は深刻のようです。
職人仕事だけで生計を立てるのは本当に厳しい時代ですからね。
そうは言っても、手仕事には手仕事の良さと言うか、手仕事でしか出せないものがある。
手仕事の大切さを忘れずに、将来に向けてそれをしっかりと伝えていきたいと思っています。
道具は使われてなんぼ。茶席で使われている姿を見て欲しい。
-数々の茶道具を作ってきた光哉さんから見て、遠州流の魅力はどのようなところですか?
そもそも千家さんの茶道具作りからこの世界に入ったので、初めて遠州流の茶道具を見た時には驚きましたよ。
大名茶道である遠州流では、とにかく細やかで複雑な美しさを追求されます。
こちらは宗実御家元のお好みで作った相応棚です。
柱一つとってもしっかりと細工が施されていますし、欄干にも繊細な透かしが彫られています。
すっきりとした細めのシルエットや、ところどころに使われている曲線のあしらい方を見てもらえると、どことなく優雅な雰囲気を掴んでいただけるのではないかな。
-全体的に優しい印象です。
そうですね。
一般的な茶道の棚と言えば、四角くてシンプルで、素朴な味わいのあるものを想像されると思いますが、かなり違うでしょう。
-細かい透かし彫りなどは、思わず見入ってしまいますね。
でも実際のところ、茶道において「棚」は、このような鑑賞のされ方はしないんですよ。
-どういうことですか?
棚はそもそも単体で使うものではありませんよね。
ここに様々な茶道具がセットされて初めて、その存在に意味が出るものです。
-それは確かに。さまざまな茶器が置かれている状態で、皆さまの前に出てきます。
その時に、個々の主張が激し過ぎるとお互いを引っ張り合ってしまう。一つの棚でも、そこにどのような茶道具を合わせるかで、それを使う人の個性が出てくるものなんです。
職人の作った「棚」としてではなく、ぜひお茶の席で、実際に使われている茶道具としての「棚」を見て欲しいですね。
-最後に、遠州流の茶道具を作る上で大切にしていることを教えてください。
御先代宗慶宗匠から頂いた2つの言葉がとても心に残っています。
それは、「用を足す」それから「作家になってはいけない」というものです。
-どのような意味でしょう?
茶道具は飾っておくものではなく、使うものであるということ。
そして、職人は芸術家ではないということ、そう理解しています。
-先ほどの、「実際に使われている棚を見て欲しい」という考えとも一致しますね。
確かに遠州流の茶道具は見た目にも気を遣います。
でもだからと言って、使い勝手を無視しては意味がありません。
道具はあくまでも道具。芸術作品ではないのですから、「見られるもの」としてのアピールが過ぎては、本末転倒になってしまいます。
プロフィール
中谷光哉(なかやこうさい) 北海道小樽市生まれ 88歳
会社勤めの後、辻石斎のすすめで茶道具作りの修業し、山中に戻り初代が開いた工房を継承。赤地友哉に学び、遠州流の茶道具を数多く手掛けている。